今日は、大変勉強になったことがあったので、そのことについて書こう。

仕事の関係で、今まで一回も会ったことのない人のお通夜に行った。その人は95歳まで生きて、とても楽しそうにしていたのが、スライドで流されていた。笑ったり、語ったり、生前の生活の一端を垣間見た。

シャトルバスが出ていた。中ではみな、口々に、バスが遅いとか、もう帰っちゃうよなんて言っていた。一人の人間が生まれて死んで、最後の挨拶に向かうというのに、あんたらどうゆうこっちゃ、不謹慎な、ここらで下ろしてしまえ、あんな奴等、と思った。

他人の死なんてこんなもんなんかもしれん。袖をするのが他生の縁だったのはもう大昔のことなのかもしれない。彼らの死にも、おそらく他人は同じ態度をとるのだろうよ。

こうして死さえも、ただ通過してゆく、レシピの次の手順になってしまったら、生もまた、只通過してゆくものになってしまうのだろう。そうしたら、我々の生など、道端の標識と何の相違のあろう。

儀式が儀式的・形式的にのみ進行していく時代にあっては、日常という非儀式的な営みまでもが単調なテンポに基づいた一つの形式として「過ぎて行く」。我々は気づかない、今そこを蚊が飛んだことに、それと同時に、我々の生が音もせず消し飛んだことに。