ついに

お父さんが倒れた。いつか来るとは思っていたが。さっきまで有意義に考え事をする時間を楽しんでいた自分に罪悪感を覚える。

人間はいつか死ぬ。だから今を精一杯生きるのだ。―――というようなきれいな言葉は、死という現実を目の前にしては陳腐化するだろう。

お父さんの体がよくないことは十分わかっている。長くないかもしれないし、70歳か80歳までは生きられるかもしれないということも。でも、あと20年くらいのものだろう。20年というと長い気もするけれど、行動範囲の狭い20年は踊ろうほどに退屈だろう。

私は今22歳だ。5月で23歳になる。やりたいことがまだまだこれから出てくる。親の面倒を看ることは、子供の義務なのだろうか。まったく介護を必要としない状態であるのならば、自分がいなくても問題はない。しかし、自分の力でご飯も作れない状態なのであれば、私が実家に帰るほかはない。実家に帰ったところで仕事がない。自動車の免許もないから陸の孤島に住むのは不可能だ。PCは辛うじて守りたい。

こんな時、自分の腕だけでご飯が食べれるような特別な能力が何かしら身についていればなぁとつくづく思う。。。。今はなんにもない。明日から治験でもしないとご飯にもありつけない(逆に、治験ならまだできる)。

お金は持っておくもんだ。貯えがほんの少しでもあるのとないのでは状況が全然違う。

実家に帰ることになるかもしれない。そうしたらまた、そのときに考えることにしよう。。。。。いや、今考えられるだけのことは考えておこう。

実家に住むことになったとする。食費が月にいくら、電気代が月にいくらかかるか。それくらいはアルバイトで何とかできないか?PCを維持する費用。本はもう買えないだろう。本は全部売ってしまうことになるだろう。携帯電話もしばらくは使えないかもしれない。友人との連絡はこまめに取るようにしよう。

一年くらいは状況の建て直しに使うかもしれない。実家の周りに頼れる人がどれだけいるか。

達也君のように、岡山で仕事をするのも悪くない。アルバイトでも何でもいいから、ご飯が食べれるようにしていかなくてはいけない。

実家のメンテナンスはどうしようか。ほったらかしにはできないだろう。かといって、住み続けるのか?何年あそこに住み続けることになるのか?富村は個人的にはとても好きだし、いいところだと思う。知っている限りの村民の皆さんはいい人が多いし。でも、私にとってエキサイティングなことが少ない。エキサイティングさをどこに求めるか、どこから発見するかが大切なんだけれど。

今22歳、あと人生が78年あるとしたら、そのうちのたった2、3年のことではないか。働いて働いて月々10万円でも稼いだら食べてはいける。もっとがんばったら貯えもできる。そうしたら今度はその後で東京に出てくるなり、海外に行くなりしたらいい。

そうだ、決めた。くよくよしても仕方ない。なるようになれ、だ。

と、自分に言い聞かせている。